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悲劇の幕は静かに開いたと思う。

2週間近くほとんど何もしない日が続いた。

定時で来て。定時で帰る。

windowsサーバを1個貰って、そこにメールサーバをたてて喜んだりしていた。

SEというのは得てして新技術に触れるのが嬉しいのだ。

SMTPとIMAP4。POP3。

そんなことをしながら毎日は過ぎていった。
12.14 (Fri) 17:47 [ 幕開け ] CM1. TB0. TOP▲
序曲、と呼ぶのならば。今思えばそれは壮大かつ荘厳な序曲だった。

あらゆる意味において無音。

誰もかまってくれない。

そして、誰も何も教えてくれない。

何が正しくて何が正しくないのか。

われわれは一体どこへ行くのか。

あてのない嵐への船旅はこうして始まった。

悲劇はこれから起こるのだ。
うちあわせはホントに挨拶程度だけだったように思う。

その後、ミドルウェア設計部の片隅に席を指定されてマシンのセットアップを行った。うちの会社の悪い所は

「聞かれなければ誰も教えない」

ところだ。気を遣う、ということを知らない。相手が困っているのを目の前で見ても見ぬフリをする。このときもネットワーク設定で四苦八苦。丁度同期がいたので助かったが、知り合いがいなかったらどうなっていたのだろう。知らない人ばかりの所へ放り込まれて

「あとよろしく」

なんか違うんだよ、うちの会社は。
本社で案内されたのはオフィスの隅にある打ち合わせスペースだった。

大塚、という明るいだけが取りえのミドルウェア設計部の課長と、村上と私。そして製作所のSE3人。とりあえず、といった感じで簡単な説明を受けた。思えばこの時点で何か変だと思うべきだった。なんで初回の打ち合わせで2年目と3年目だけしか出さない?おかしくないか?だが、その時は少しおかしいな、と思った程度だった。
配転された第4課はよくわからない親父の課長が仕切ってるインフラ構築チームだった。当然ソフトウェア開発の事をわかってる奴なんて誰もいなかった。

直属の上司となった中島はまさにインフラ構築を絵に描いたようなキャリアの持ち主で、GroupMaxの構築のエキスパートだった。

一緒に配転された1つ上だが年下の村上はプログラムさえ書いていればいい、というような技術屋さんで、マネジメントとは一切無縁の人だった。上からしてみればマネジメントメインで1年半やってきた私とはいいコンビだと思ったのだろう。
2003年の8月も終わろうか、という頃。

僕は山口課長に呼び出され、異動を告げられた。異動はある意味において、希望通りだった。1年半、日立全社ワークフローを作ってきて、なんとなくマンネリ感と行き詰まりを感じていた僕は課長に異動を願い出ていたからだ。

仕事はミドルウェア設計部の仕事。詳細は知らない、といわれた。思えば。この時点で疑うべきだった。起こるであろう不幸を。身に降りかかるであろう災いを。
ベイブリッジのほのかにそよぐ風はかすかに潮の香りを含む。

東京湾の傍らにひっそりとたつ、周りになにもないオフィスビルのトイレの個室の中で僕はひっそりと涙を流していた。
南は誰彼となく自分が気に入らなければわめき散らす。自分の主義主張が一番で、それが正しいと思っている。そんな奴が今のプロジェクトを仕切っているのに僕は我慢がならなかった。そして、身体が。心が。悲鳴をあげていた。
復帰は完全に失敗だった。もっと休めばよかった。こんな奴の下で働くのなら。

「お客さんの前だから」

そんな理性が働く自分が悩ましかった。客の前だろうと、誰の前だろうと、自分が気に入らなければ。わめきちらす南。そしてそれが客にどんな印象を与えているか、それすらを考えない南。殴りかかりたい欲望を抑えるのに僕は必死だった。

そう、2年前、あのプロジェクトのように。
語るべきか。

語らないべきか。

迷ったけれど。

やっぱり語ることにしようと思う。ここで語られる話は全て事実である。そして、僕の人生を滅茶苦茶にした。僕は自律神経失調症という病に犯され、今も苦しんでいる。

日立という会社が抱える闇。何もしない上司。そんないろいろなごちゃまぜな何だかわからないものを相手に、僕は戦った。そして、勝ったのかもしれない。でも、負けたのかもしれない。

その判断は後に続く人間が下すであろう。

SEを蝕む「デス・マーチ」という魔物。その正体をここで少しでも感じてくれるのであれば幸いである。